ミドリコ雑記帖

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近代史読書ブーム

近代史を読む年間続行中です。最近は阿川弘之の『軍艦長門の生涯』(借り物、再読)と『米内光政』『井上成美』を同時進行で読んでいます。

ふだんの私はフィクション、それも決まった作家のものしか読まないので、ノンフィクションや歴史ものというのは、ほとんど未知の世界です。なので、本から得られる知識以外にもさまざまな発見があって、そちらも面白いです。

ノンフィクションが苦手な理由は、「説明されても理解できない」というのも大きいのですが(説明されると反射で飛ばしてしまう。なのでミステリとか条件出しをまったく理解していなかったりする。我ながらひどい)、筆者と作品の距離を測りかねる、というのも要因だと思いました。
フィクションにせよノンフィクションにせよ、作者が主張しすぎるものは、私は好きではないようです。書き手はあくまで冷静な第三者の位置にいてほしいんですよね。「どこかにお話の生る木が」っていう気持ちに近いのかもしれない。あと、文章が好みでないと、すらっと読めないですね。昔「リング」が流行ったときに、ちょうど高村薫読んでるところで、「文章が気になって、頭の中で赤入れちゃって、高村だったらどう書くか?とか考えてると全然怖くないんです!」「あれはヘタウマ感が怖さをそそるのよー」ていう会話をしたことを思い出します。

歴史ものを読んでて楽しいのは、ひとつの事柄をいろんな人がいろんな角度から書いていること、知ってる人が何度も出てくること! <知ってる人が何度も出てくる>っていうのは、史実なんで当たり前なんですけど、なんでこんなに嬉しいんでしょうね。
フィクションなら、基本的に登場人物ってその物語の中だけの人だから、思いもかけず再会するのが嬉しいのはわかるんですが、歴史ものを読んでて、同じ人物が出てくることが、なんでこんなに嬉しいのか。私の脳内では、史実とかフィクションとかあんまり関係ないのかもしれない。

一方で、戦争もののフィクションは、どんなに感動的でも何となく居心地が悪い、ということも判明。泣けてくると、「でもこれフィクションやん」と思ってしまう。ノンフィクションはノンフィクションで、「軽々しく泣いて良いものか」と思ってしまって、これも居心地悪く泣くはめになるのだけど。
それはともかく、戦争もののフィクションの感想は私の場合「こんな思いはしたくないから戦争は嫌だ」に集約されてしまって、そうではなく、戦争に至った経緯とか(日本史の基本的なところが分かってないので)、その頃どんな人たちがどんな生活をしていたのか、とか、その頃のいろんな立場の人の感覚とか、そういうことを知りたいので、ノンフィクションのほうが目的に適っていて良い、でも文章がうまい人のほうがすらっと読めて良い、ので阿川弘之がたいへん面白いです。最初に『軍艦長門の生涯』を貸してくれた友人某氏に感謝しきりです。この本、ほんとは手許に置きたいんだけど、絶版なんですよねー。なんてことだ。