ミドリコ雑記帖

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音楽と自分について

鬱陶しいことこの上なくて、おまけに長くて何の役にもたたないのでたたんでおきます。興味と時間のあるかたはどうぞ。


歌について悩み始めてからそろそろ一年以上になります。
もともと何か大事なものがいろいろ欠けてる人間なので、わからないこともたくさんあって、たとえば大学生の頃の私は「いい演奏」って何なのかさっぱりわかりませんでした。でも歌うことは好きだったし合唱やってるのは楽しくて、やらずにいられなくて、レッスンに通ったりいろんな演奏会に行ったり、してるうちに、なんか「あっこれかな」っていうのが自分なりに見えてきて、そこからはもう本当に楽しくて、どんなしんどいことがあっても、歌えれば大丈夫、歌いにいけば大丈夫、って、思っていました。
そのあといろいろしんどいことがあって、ついには歌うどころか聞くのもだめ、ていう状態がしばらく続きました。半年くらいかな? 無欲になりたいとか思ってたけど、欲のない状態ってほんとに怖いんだって実感しましたです。
まあそれはさておいて、そこからだんだんに回復して、サボってた合唱団にも復帰して、しばらくして、他の合唱団に誘われて歌いに行きました。それがとても面白くて、ひさしぶりに邦人合唱曲を歌えたのも嬉しくて、その直後、ちょっと考えなしに、いろんな演奏会に参加することになりました。
で、合唱以外でも何かとたてこんでいた時期だったので、自分でもびっくりするぐらい忙しくなって、その中でふと、「歌わなきゃ」と思ってる自分に気がついて、驚きました。歌いたくて忙しくしてたはずなのに、いつの間にか、歌うのが嫌になってたわけなのです。
古巣の合唱団のほうでもいろいろありまして、運営方針とか音楽の方向性とか、自分には合わないなあ、と思ってた時期でもありました。こういう言い方をするとキレイな感じですが、「好きにやってて、あたしは知らんから」という感じに近いです。ただ、ここの合唱団でもよく言われてたことですが、これって趣味なので、合わなければ他所にいけばいいだけの話だし、好きな人たちがいたので残念ではあるけど、割り切れずに悩むようなことではなかったです。
では何を悩んでいるのか、なのですが。(ちなみにここまで前ふりです。長い前置きが、整理のつかなさを物語っていますね(苦笑))
簡単に言葉にすると、もうひとつの合唱団でやっていることが、私にはさっぱりわかりませんでした。技術的にハイレベルでついていけない、という話ではありません(つきつめればそういうことかもしれませんが)。わかる言葉でわかることしか話していないのに、そしてみんなちゃんとその言葉が通じているのに、私にはそれがどういうことなのかがわからなかったのです。
……私は「うまい演奏」「恰好いい演奏」がしたいと思っていて、それに近づいたと思えるとたまらなく幸せだと思います。技術的に巧い、てことだけじゃなくて、歌っている人が生き生きとしてみえる演奏だといいな、と思うし、アマチュアの演奏で、いちばんお客さまに見せられるのはそれだろう、とも思います。
もうひとつの合唱団でやってることが、それとそんなにかけ離れてるはずない、と思います。でも、ほんとに、ぜんぜんわからなかった。最初はわからないなんて(違うなんて)思わなかったのに、気がついたら、もう悪夢のなかにいるみたいに、何にもわからなくなってたのです。ほんとに、悪い夢みたいに。
ひとつああこれのせいかな……って思うのは、私が非常に情の薄い人間であるせいかな、と。わかりやすい自虐趣味みたいですがそういうことではなくて、感情に関して本当に鈍いところがあって、たとえば自分の好きなものきらいなものがすぐにわからなかったりする、ものすごく腹がたったり傷ついたりしても、度合いが強ければ強いほどその場では怒りも泣きもできなくて、一日とか一週間とか、もっと経ってからわかったりするような感じなので、自分のことでさえそうなので、他人に対するやさしさとか共感とか、わからないところは本当にわからないのです(普段はけっこう忘れてるのですが)。もうひとつの合唱団の人は、ほんとうに素直でいい人だな、と思わされる人が多くて、だったらいられないのもしょうがないかなあ、なんて、一部ではわりとクールに思ったりもするのですが(わからないものをわかるふりはできても、わかることはできない、なら仕方ないかと)、そこには私の好きな人や尊敬する人もいて、その人たちが、あたりまえに、そしてだいじに思ってることがわからない、っていうの、すごく辛いわけなのです。
変な喩えですけど、3Dアートってありますよね。私はあれ見えないんですが、まわりがみんな見えてて、できないなんて思いもよらない、って、そういう感じにちょっと近いです。で、見えないだけなら「私見えないもん」でいいんだけど、みんなは見えたものについて語りあってて、それをもとにいろんなことをやってて、しかもそれって、音楽だけじゃなくって人間としての根幹にかかわってるような感じがする。人としてどう、ってことにまで自然にかかわってて、なのに、私にはそもそもの絵すら見えてないと。絵があるってことも、言われないとわかんないんですよ。
まあ何かと問題のある人間なことはわかっているのですが、「考える」ことは操作できても「感じる」ことはどうしようもない、褒められたものでない部分も含めて自分だし、それを認めないことにははじまらない……と思ってここまできました。その考え方が間違っているとは思いません。私はやさしくもないしあたたかくもない。それがどういうことなのか理解できない。だけど、図々しいといわれても、私は自分が存在すべきでない人間だとは思わないし、幸せになるべきでないとも思わない。
話が妙な方向に流れてますが、つまりその合唱団で「みんなに見えてる絵=やさしさとかあたたかさとかそういう感じのもの」が見えない私は、歌うべきじゃない人間、そもそも存在すべきでない人間じゃないか、と思えてしまって仕方ないのです。
幸運にも昨年後半は「ことのは」で歌う機会を得て、私はやっぱり音楽が好きだし歌えるのが幸せだ、と感じることができました。でも、じゃあまた歌うところを探そうか、どこで歌おう?となると、おんなじ壁に突き当たります。
やさしくなくても、あったかいってわかんなくても、歌いたいんだけど。人と音楽をやりたいんだけど。でも、もしかしたら私が音楽だって思ってるものは、音楽じゃない、なにか別のものなのかもしれない。「人と音楽をやってる」つもりで、人を自己満足の道具にして踏みつけてるのかもしれない。そうだとしたら、好きな人や尊敬する人のだいじなものを踏み荒らしてしまう前に、ここから立ち去るべきなんだろうけど。私はどこで歌うべきなんだろう? そもそも歌ってていいんだろうか?

……そういうことを考えてて、一年が過ぎたわけです。我ながら暗いと思いますが真剣なわけで、いまだに結論は出ていません。
薄々察してくださってる方もいらっしゃると思うのですが、どこかで思っていることを表明しておきたくて、ここに書きました。長文お付き合いくださりありがとうございました。
この件に関して何かお言葉をいただけるようでしたら、できれば、コメント欄ではなく*midoliko@mail.goo.ne.jp*までメールいただければ有難いです。